勉強に金のかからない世の中。

「金銭的なことが要因で教育の格差が生まれている」

 

よく耳にするが本当だろうか。

 

実際、塾に行けるかどうか、という部分においては正しい。

 

『塾』のチカラは大きいだろう。

 

ただ『塾』の良さってどういった部分なのだろうか。

 

①先生にすぐに質問できること。

②塾に到着さえすれば、その時間は必ず勉強時間になる。

 

この②がなかなか大きい。

 

別にやる気さえあれば、勉強って自分でできるものだと私は思っている。

 

しかし、それが子供には難しい。

 

『塾』に行けるかどうか、という点においては金銭的な格差はあるかもしれない。

 

ただ、一方で、

「無料で勉強できるツールが昔より今の方が圧倒的に充実している」

と思う。

 

それは何かって、言うまでもないけど、インターネットだ。

 

ネットにアクセスすれば、どんな教科も勉強できる。

 

私も最近、英語の学習用ポッドキャストをダウンロードして車の中で聞いている。

 

あとは、私が大好きなゲーム『龍が如く』の実況動画をアメリカ人がYoutubeにアップしているので、それを観たりしてる。

 

どちらも無料だ。

 

他の教科に関しても、中高生が学ぶようなものはテキストと同じレベルのものがネットにある。

 

難しい論文を読むこともできる。

 

最近は、図書館も充実している。

 

パソコンがあるし、新しめの本も置いてるし。

 

紙のテキストにこだわるなら、ネットで中古品を安価で手に入れることも容易だ。

 

つまり、やる気があれば、勉強に金のかからない世の中になってる。

 

昔と比べたら、圧倒的に。

 

まあ、しかし、塾のメリットでも挙げたけれど、サボらずに子供がネット学習するかは難しいのかなあ。

 

ネットサーフィンしちゃうよなあ。

 

差別のなくなり方について

私は、差別のなくなり方について、二つの方法があると思っている。

 

一つ目は、みんながその差別について勉強して、「良くない」と意識を高く持ち続けること。

 

二つ目は、みんながその差別について、忘れること。次の世代が知らないって状態になること。

 

私は、二つ目の方が好きだ。

 

皆が特定の差別について意識しすぎると、気遣いが暴走して、逆差別のようなことが起きてしまうし、何より堅苦しい。

 

出来れば二つ目の方法が良いと思っている。

 

ただ、それもなかなか難しいのかな、と思う出来事があった。

 

5年くらい前に起きた橋下徹さんへの例の週刊誌の記事だ。

 

部落差別への教育って関西では特にしっかりおこなうものらしい。

 

私も関西出身なので、幼いころにかなり授業で取り扱われた記憶がある。

 

しかし、大人になるにつれて、半分忘れていっているような状態になっていたし、みんながそうなっていくのだから、自然に差別ってなくなっていくのかな、なんて考えていた。

 

みんなが気にしてない、みたいな。

 

それだけに、あの記事はなかなか衝撃的なものだった。

 

「それダメだろ」って。

 

せっかくなくなりかけていた悪いものがまたぶり返したかのような印象を受けた。

 

しかも、あの記事への人権派の反応が凄く良くなかった。

 

普段、「平等」「人権」「差別反対」と声高らかに叫んでいるような有名ジャーナリストや政治家の一部が、

「あの記事は問題ない」とか「よくやった」みたいなことを言い出した。

 

橋下徹さんは普段、そういった人たちと対立することが多かった。

 

しかし、それとこれは別。

 

普段、人権派を名乗っている人が「橋下さんが嫌いだから」という理由で、あの記事を認めてしまっては、何の大義もない。

 

嫌いな人には何を言っても良い、というのなら、何が人権派なのか。

 

今回、上記のようなことを書いたのは、橋下さん自身が今回の蓮舫さんの国籍問題で以下のように話しているから、思い出したことだ。

 

↓↓↓↓

その最たる御仁が、参議院議員有田芳生。こいつだけはほんと許せないね。

週刊朝日が僕の出自を差別的に連載記事にしたとき、有田は「これは面白い!」と言い放ったんだよね。そして僕が猛反撃したら、よく分からん言い訳をしていた。その一方、今回の蓮舫さんの戸籍謄本開示問題では、「人権問題の歴史的逆行」になるから開示を許してはいけないなんて言っている。

有田は自分が嫌いな相手(僕)の出自が公になることは面白く、自分の所属する党の代表の、ちょっとした戸籍情報が開示されることはプライバシー侵害になり、人権問題にもなるから許されないと言うんだ。典型的なダブルスタンダード

↑↑↑↑

 

まったくその通りだと思う。

 

日本の伝統的美しさ = 消えゆくもの?

最近、三島由紀夫さんのことをよく調べている。

 

最後に割腹自殺したノーベル文学賞候補にまでなった有名作家だ。

 

今は、ネットに沢山の動画がアップされているし、本も簡単に読める。

 

文学を理解する能力がそこまでない私だが、少し語らせてほしい。

 

美しさをとにかく追及する人であり、様々な美を理解したのだと思うのだが、やっぱり一番のこだわりは、「消えゆくもの」への美意識だったのだと思う。

 

死に関するインタビューでも、

「不思議なもので、戦争に行って死ぬと思っていた時の方が、幸福を感じていた。現在は大義のあるドラマティックな死に方が出来なくなっている。」

と答えていた。

 

代表作の『金閣寺』についても、金閣寺が戦争で焼けるかもしれないとか、誰かが尺八を吹いてメロディーとともにあるときとか、『有限』であるときに輝きを感じる、という話であった。

 

最終的に右翼的になったのも、『日本的な美しさ=消えゆくもの』であったからではないかと思う。

 

美意識が先にある、というか。

 

「桜は散るから美しい」とは、まさに『消えゆくもの』の美意識であり、忠臣蔵でも最後に英雄が死ぬから良いのかもしれない。

 

日本の伝統的な美しさとは、やはり、『消えゆくもの』『有限なもの』なんだろう。

「凡人で良かった」という話。

自殺する小説家を考えたときに、

「自分は凡人で良かった」

と思う。

 

私は小説家と比べると、圧倒的に凡人だし、俗的だ。

 

少しでも女の子にチヤホヤされたらデレデレして嬉しくなるし、少し褒められると承認欲求が満たされ自慢げになる。

 

酒を飲んで満足したりも出来る。

 

しかし、自殺するような小説家はそうではないのかもしれない。

 

彼らはもっと崇高な感覚を持っていて、嬉しさ、虚しさ、などの感覚が高いレベルにある。

 

一般人の俗的なもので満足しなくなっている。

 

だから、「虚しさ」を感じやすいんじゃないだろう。

 

天才には天才の苦悩がある。

 

だから、自殺する小説家を思うとき、

「自分は凡人で良かった」

と思う。

 

「振る舞いを選択している」と自覚すべき。

「人に優しくするときは、見返りを求めるべきではない」

 

よく聞く発言ではあるが、確かにそうだと思う。

 

思ったような反応が返ってこないときに、「せっかく優しくしたのに」となるのは不健康だ。

 

だが、なんだかんだで、優しさが返ってくるのを期待してしまうのが人間というものではないだろうか。

 

そもそも、「見返りを求めない」というのは、どういった境地なのだろうか。

 

どうやったらそう思えるのだろうか。

 

私なりに解釈してみたので、紹介したい。

 

「好きでやったことだから」

 

私が人に優しくしているのに、どうしてソレが返ってこないのだろう。

 

そう思う前に考えてほしい。

 

その振る舞いは自分で選んだことではないだろうか。

 

近くにいる人のことを手伝いたい。

 

「手伝う」or「手伝わない」の選択肢があり、「手伝う」を選んだ。

 

それは、好きで選んでいることだ。

 

つまり、感謝を受けた人がたまに口にする

「いえいえ。私が好きでやったことですから。」

は、本当にそういう意味だ。

 

そう口にする人の多くは、

「振る舞いに選択肢があり、好きで人助けを選んだだけ」

という意識をハッキリ持っているのではないだろうか。

 

選択がなかったこと、無理矢理やらされていることなら、見返りがないと、嫌な気持ちになる。

 

しかし、自分が選択したことなら、好きでやったことだ。

 

困ってる人をほっておけないのは、その人が人を助けるのが好きだからだ。

 

常に自分が選択していると思えば、見返りを求めずに済むんじゃないだろうか。

 

何事もそう。

 

『努力』も。

 

エラそうな口調でここまで書いてきたが、上記のようなマインドは、最近、自分に言い聞かせていることでもあったりする。

 

「好きでやってることですから」と言えるようになりたいね。

少しの器用さは害悪になりうる。

堀江貴文さんが「小利口は良くない」とおっしゃっていた。

 

その理由は、小利口であるゆえに、未来のリスクを色々と考えてしまい、思い切った行動が出来なくなるからだと。

 

世間の社長は、みんなが思っているほど頭が良いわけではなく、思い切りが良いから起業している、と。

 

これに少し似た話になるのだけど、自分も、「少しの器用さは害悪になりうる」という感覚を持っている。

 

例えば、どうしようもない会社あるとする。

 

その会社は、役職者が実力も持たず、権力ばかりを振り回し、組織の将来へのビジョンも持っていない。

 

そんな会社でも器用な人って、それなりに適応してしまう。

 

厄介だけど権力を持った人から、嫌われないどころか、上手く好かれたりするかもしれない。

 

何か問題が起きたときにも、自分が責められないよう、上手く立ち回れるかもしれない。

 

何か主業務とは別の仕事を無茶ぶりされたときも、それなりにこなしてしまうかもしれない。

 

ただ、そういう人は、そういう能力があるだけに、転職をしないような気がする。

 

それなりにストレスッサーを避けたり、受けたストレスもそれなりに逃がしたりして、それなりにやってしまうからだ。

 

本来は、転職した方が良いのに、そういう人はしない。

 

『すごい器用な人』は転職すると思う。

 

人生設計にも器用だから。

 

しかし、『少し器用な人』はしない。

 

そういう意味では、『不器用な人』の方が、自分に合ったところを探す傾向にあるのかもしれない。

 

『少し器用な人』は『不器用な人』より、本来、ポジティブな能力を持っているのだけど、その少しの器用さがネガティブに作用することもあるのかな、と思う。

思考を止められない症状。

自分は昔から、考え事を止められないという症状を持っている。

 

その間は、周りの人からはボーッとしているように見えているだろう。

 

ただ、特別なことでもないのかな、と思っていた。

 

しかし、先日、たまたまグーグルで「思考 とめられない」と検索してみたところ、その特徴が多く紹介されていて、それは自分に当てはまり、かつ、なかなか深刻な症状であることが分かった。

 

具体的な特徴としては以下のようなものがある。

 

・「考えるのが好き」と自覚している。

・嫌な出来事があったら、そのことを考え続ける。

・思考を止めるために酒を飲む。

 

上の3つは自分に大いに当てはまる。

 

「考えるのが好き」は結構なことだが、意味のある考え事でないことが多い。

 

誰かに怒られたとか、そういった出来事があると、休みの日も考え続けてしまうことが多い。

 

止められないのだ。

 

で、その考え事をやめるために酒を飲む。

 

また、嫌なこと以外でも政治や経済のことを考えて、せっかく外を散歩しているのに、風景が入ってこなかったりする。

 

食事中もそんなことが起きる。

 

深刻なのはネガティブ思考

 

別に政治のことを深く考えたりするのは構わない。

 

問題は自分の身の周りに起きたネガティブな出来事を考え続けてしまうことだ。

 

・良くない将来を想像して勝手に悲観的になる。

・誰かを憎む。

・前向きなことが出来なくなる。

 

デメリットは沢山あるだろう。

 

解決方法

 

決定的な解決方法はない。

 

ただ、唯一自分にとって効果があるのは、「ただ自覚する」こと。

 

ネガティブ思考がぐるぐると頭の中を駆け巡って止められないときは、

「自分は思考が止められない症状(病気)だからそうなってしまっているだけなんだ。」

と自覚する。

 

止めることは出来なくても、それ以上に嫌なものに進化するのを防ぐことが出来る。

 

嫌な未来を勝手に想像したり、憎しみを大きくしたりするのを防ぐことが大事。

 

「自分はそういう病気を持ってるんだ。他の人はこんなに考えたりしないことなんだ。だから大丈夫なんだ。」

 

「病気」というワードを使うとネガティブな気がするけど、むしろ逆説的にその方が効果があると思う。

 

あくまでも「それ」のせい、とすることが目的だから。